根拠はない

マイティースイズデリシャス

ラブレターフォーハー、ヒムアンドミー

残念ながらわたしはレポートを書くことができないので、自分のことを書きます。

人によって解釈は違うでしょうし、どこかで散々言われてきたことを何をいまさら、という部分もあるかと思います。それでもまあ日記として、いくつかの曲にともなう断片的な舞台の記憶とそのとき感じたことです。


Wig in a Box

わたし専用の毛髪システム
わたし専用の地獄
わたしのヘッド……ウィッグ……

「笑わないと泣いちゃうから」よりも、Wig in a Boxが始まる前にヘドウィグが呟いたこちらのほうが印象に残っています。

愛しのルーサーとアメリカに渡ったものの一年も経たずに破局、母は太陽燦々ユーゴスラビアに。信頼してきたものに捨てられ、戻る場所もなくなったヘドウィグの情緒不安定な様子がすごくよくわかる一連のセリフですよね。

わたし専用の毛髪システム(そうね)
わたし専用の地獄(手術のあと最後まで残ったものはこれだけでしたね……)
わたしのヘッド……ウィッグ……(ダジャレ?)

ヘドウィグにとって髪型・ウィッグはアイデンティティの象徴だったのでしょうね。映画でもヘドヘッズの方々はヘドウィグの髪型を模した被り物をしていました。

世界中から置いてけぼりをくったように途方にくれていたヘドウィグが、素敵なウィッグを身に着けるたびに表情が明るくなり、魅力的になって、初めて愛したものに再会して……お花が開くようにヘドウィグの世界も素敵なものになっていって心が躍りました。

wig in a box の歌詞の中でもMiss Midwest checkout queenになったり、Miss Beehive 1963になったり、替えるたびに違う人物になれるウィッグはヘドウィグのキャラクターをコントロールする大切な器官だったのでしょう。

曲が終わった後、「シングルカットしちゃおうかしら」とおっしゃっていましたね、お待ちしております。完全限定生産盤には特典のライブ映像とドキュメンタリーDVDをつけて、初回限定盤にはライブで演奏した全楽曲の特典CD、通常版にはフォトブックがついていると嬉しいです。

ちなみにこの場面でウィッグを外したヘドウィグの前髪がとても短くてジーンセバーグみたいでかわいかったです。おデコは広いにかぎります。


the long grift

ぶん投げたはずのウィッグを持ってきたイツハク。

わたしはほなみさんイツハクの突き刺すような迫力のある、鼓膜がビリビリとする the long grift がとても好きで、いつも呼吸を忘れて聞き入ってしまいます。

look what you've done って、わたしは自分に向かってよく言います。イツハクはヘドウィグに頼んで、クロアチアからアメリカへわたってきました。ウィッグを脱ぎ、ヘドウィグの世話を焼きに。

イツハクは look what you've done と自分に言ったことあるかしら、あるでしょうね。

クリスタルナハトという名前でドラァグクイーンをしていました。映画の特典ディスクにその様子が描かれています。初々しいクリスタルナハトがヘドウィグの荷物を持ってあとを追う場面……そういえばルーサーは荷物持ちの男の子と去っていきましたね。

イツハクは、単にあの場所から抜けだすための手段としてヘドウィグを利用したのかもしれません。それでもヘドウィグはイツハクにとってある種の指針でもあったのでしょう。血縁のいない異国の地で生きていく上で、頼れる人がいるというのは大切なことですから。

悲鳴のような the long grift のあと、へらへらと「一緒に……」なんて取り繕うように言うヘドウィグに一度は背を向けて去っていったイツハクでしたが、ウィッグを渡しに戻ってきます。なんだかんだ言っても、心配だし、この人には自分がいなくちゃ……って思いますよね、わかります。

ウィッグがどのような存在なのか、自分も奪われた身であるからこそより一層身に染みて理解しているのでしょう。

ただ、ヘドウィグはそのウィッグを受け取りませんでした。むしろ、イツハクに被せそっとひとすじの髪の束を梳き、背中を押すのです。

元々イツハクの持っていたウィッグを返したのではなく、ヘドウィグの持っていたものを託したように思えました。


Wicked Little Town

Hedwig's lamentからのExquisite Corpseで全身を引き裂かれたようにのたうちまわるヘドウィグ、北海道夜の公演での衣装を脱ぎ捨て咆哮するシルエットに胸をかきむしりました。過去のいろいろのこと、積み重なってできた今の自分、やるせなさとか後悔も、悔しさや悲しみも、切れ切れのヘドウィグの中から出てきたのは、かわいいトミーでした。

あおいベースを抱えたトミーは

when you've got no other choice
you know you can follow my voice

なんて歌いました。

ましてや東京凱旋初日の夜、あの男の子は声を詰まらせ涙をこらえながら歌いました。「笑わないと泣いちゃう」と嘯いていたヘドウィグをトミーは知っていたでしょうか。

ヘドウィグはノーシスを知識を知恵をトミーに授けてくれました。トミーの前にいるヘドウィグはいつも一歩前を行くお姉さんでしたので、そんな姿知らないかもしれませんね。それでもヘドウィグは持っている唯一のものを打ち明けたのですよね。

おぼこいかわいいトミーは悪くない。ただ正直なだけですし、自分を守るために一生懸命なだけでもあるんです。ヘドウィグだってそういうあおいところ、かわいいなって思っていましたよね。

Sugar Daddyで「男ってバカ!」とかわいく言い放っていたけれど、そんな男をうっかり信じてみようかって、この人は違うかもしれないって思っちゃう女も本当に救いようのないバカ! ヘドウィグちゃん、今度ゆっくりお酒でも飲もうよ……。


Midnight Radio

六本木の最終日昼公演を観た日の夜は、とんでもない衝撃を受けたようで感情がオーバーフローしてしまい、眠っているのか起きているのかわからない状態でわたしの腕と脚は肘と膝までそれぞれ短くなりました。

後ろ頭、首の少し上の辺りに蓋のあいた空のアルマイトのお弁当箱が埋め込まれ、ヘドウィグマインドシアターよろしく、舞台の映像が断片的に次々と切り替わり、縦長に左右の耳が競い合うように音楽を脳天に向かって這わせていきました。

原因はMidnight Radioだと思われます。

第一声があまりにも深い藍緑色をした声で、1リットルの容器に入ったアイスクリームのような感情を深く掬われてしまって、いくつもの階層になっているところの普段は空気に触れることのない部分が露出してしまいました。

この曲を歌っているのがヘドウィグなのかトミーなのか、いつまでもわからないままでした。その時によってヘドウィグだったり、トミーだったりするのです。

そんなことをグルグルと考えていて、ひとつ、しっくりきたのが、ヘドウィグでもありトミーでもあるというものでした。それはトミーがヘドウィグのカタワレという意味ではなく、ヘドウィグがトミーの中に生きているという意味です。

トミーの体を使ってヘドウィグが歌っている部分とトミーが歌っている部分とが混在しているのかな、というのが現時点でわたしが考えていることです。

曲の最後、 lift up ypur hands という歌詞とともに客席からそろそろと腕が上がっていきます。肘を曲げたままの人もいれば、まっすぐピンと伸ばす人、音楽に合わせてゆらゆらと揺らしながら上げている人もいます。

それがわたしにはラジオのアンテナのように見えました。イツハクにアイデンティティの象徴であったウィッグを、トミーに知識を渡し、空っぽになったヘドウィグを受信するためのアンテナ。


おしまい

2022年2月はヘドウィグに首ったけでした。

舞台のあった日はもちろん、その後数日は丸山隆平さんのヘドウィグやほなみさんイツハクの声、アングリーインチの演奏が消えてしまわないように耳に残る音楽を大切に大切になぞりました。

クライマックスに向かい、先を観たい気持ちと終わってほしくない気持ちがない交ぜになることはありますが、それを感じることすらできませんでした。舞台を観ているわたしの存在がなくなり、音楽は耳を通らずこめかみの辺りから真空になってしまった体の中に響き入り、両眼だけが宙に浮いているようでした。

ヘドウィグ自体は以前より存在は知っていたものの、えらく長い「いつか観る映画リスト」に入ったままになっていました。今回舞台をきっかけに映画を観て、わたしのヘドウィグとの出会いのタイミングはここだったのだなと納得しました。

今回ありがたいことに複数回観劇させていただける機会をいただきました。色々な状況の中、残念ながら参加を見送ると決断され、その際にわたしにチャンスをくださった方々には頭が上がりません。またもし別の現場でお会いできたら、ぜひご挨拶をさせていただければと思っております。